アフリカへの海路
私の学生時代、今から二十年以上も前の話になる。当時の自分はイタリアやフランスに魅かれて、夏休みには何度も旅行に行ったものであるが、中でも異国情緒たっぷりのシチリア島は格別のお気に入りであった。
そのシチリア島の西端にエリチェという古代ギリシア、ノルマン時代からの歴史ある小さな城塞がある。ここは山の頂上にそびえる天空の城のような空間である。そんなエリチェのガイドブックを見ていたところ、この町からは眺めの良いときには遥か彼方にアフリカも見えると書いてあったのである。旅行をする中でヨーロッパや東南アジアの国々はすでに身近になっていたが、アフリカというのは遥か彼方の大陸であり、自分が訪れようとは思いもよらない場所であった。アフリカというこの四文字に胸を躍らせた感覚をはっきりと覚えている。
そうしたところ、シチリア島のトラーパニという港からはチュニジアへ船が出ているという情報を知り、どうやら海路でアフリカという大地に踏み入れることも現実的な気がしてきたのである。
高校時代までは引っ込み思案で臆病な自分が嫌で、なんとかもっと大きな人間になれないものかと考えていたのであったが、海路でチュニジアへ行くというのは打ってつけの力試しであった。今から考えれば大げさであるが、自分の武勇伝となるような気がするのであった。
いよいよ切符を手配したまでは良かったが、いざ船に乗り込むということになって旅行気分は一気に飛んで行った。何百人かの乗客がいたフェリーだったが、観光客は数えるほどしかいない。乗客のほとんどはチュニジアやアフリカ諸国からの出稼ぎの男たちである。故郷に戻るのだろうか、車で家財道具一式まで運んでいるような連中ばかりであった。出港前のパスポートチェックも命懸けで、順番に並ぶというマナーをまるで知らず窓口に群がるだけである。独特の汗の臭いのする彼らを押しのけてどうにか手続きを済ませたのであった。船上もゆっくりできるどころか、ひっきりなしに話しかけられるという船旅であったが、地中海を八時間ほどかけて渡り、その日の夕方、いよいよチュニジアの首都チュニスへ到着したのである。
このときは一九九〇年代後半だったと思うが、隣国アルジェリアが内戦状態にあった。今でこそ聞き慣れたテロという言葉もこの頃から耳にするようになったと思う。チュニスで宿を探そうと思ったのであるが、ちょうどアルジェリアから逃げてきた人たちがホテルに泊まっているので部屋がなくなっていると現地の人が教えてくれた。私は船で知り合った西洋人たち数人とホテルを探し回ることになってしまったのである。当時はチュニジアで英語はほとんど通じず、このヨーロッパからの旅行者たちはドイツやオランダ人なかりで、フランス語が話せる者がいない。結局、旅行会話程度の私がフランス語を使って彼らの宿を手配し、私も確かオランダ人と同じ部屋に寝たように思う。
その後、チュニジアではケリビアという地中海に面した田舎町で一週間近く過ごすことになった。イタリアでの旅の道中で知り合ったイリアスというチュニジア人に招かれ、彼の家族の家があったのである。日本人の若者が来たというもの珍しさもあって、ある晩は学生が何十人もバーに集合して私がフランス語で質問攻めに遭うという会が催されたり、ジャッキー・チェン、ブルース・リー、と至るところで話しかけられるのには閉口したが地中海の美しい砂浜を案内してもらったり、食べきれないほどの量の現地の料理をご馳走してもらったりしたのである。見返りも求めずどうしてこんなに親切にしてくれるのかと尋ねたところ「アッラーの元ではみな兄弟だ」と答えたのを今でも覚えている。
あの旅は、思い返せば珍道中で、今からでは考えられないほど呑気なものだったと思う。あれから二十年以上の歳月が流れ、世界の情勢は大きく変わった。
イタリアでは、アフリカからの大量の難民を乗せた船が難破したニュースが流れ、溢れ続ける難民をどう受け入れるかが毎日のように議論される。皆、あの美しい地中海を船で渡ってきたのだろう。そしてケリビアの彼らは今頃どうしているのだろうかと思い起こすのである。(2020年春)