さくらんぼ農園―『桜の園』(チェーホフ)
1904年初演のチェーホフ最後の戯曲『桜の園』は日本でも大正時代からよく上演されて、なかば日本の芝居と言ってもいいくらい親しまれている。
なぜこの芝居は日本で人気があるのか。登場人物の性格や全体の雰囲気の穏やかなのが日本人の肌に合うからだろうと想像するが、もうひとつ『桜の園』という題名に負うところも大きいような気がする。なんといっても日本は桜の花を愛でる国だからである。
ところが或るときドイツでこの芝居を見てびっくりした。むろんドイツ人がドイツ語で演じるのだが、その題名はどう見ても「さくらんぼ農園」としか訳しようのない言葉である。私はロシア語は出来ないけれども、遠い日本から見ればドイツとロシアは同じ文化圏に属すると言ってもいい国々だから、「桜の園」の原語が「さくらんぼ農園」という意味であることは間違いない。
それに舞台を見ればすぐにわかることだが、この芝居は古いロシアの地主一家が没落して行き、借金がかさみにかさんで、収入の手立てだった“さくらんぼ農圍”を売りに出さざるを得なくなる話なのである。買いとったのは農奴出身の商人ロパーヒンだが、モスクワの金持ちのための別荘を建てた方が儲かると言ってすぐさまさくらんぼの木を伐り出す。このあたりは農地を買いとってはマンションを建てて行った昨今の日本の業者とよく似ている。いずれにしても原題の意味するのはさくらんぼの農園であって”桜の園”というお花見でも出来そうな庭園のことではない。
しかし日本では昔から「桜の園」と訳されることにきまっている。「さくらんぼ農園」では観客が半減すること請け合いだからである。日本語のせりふを見てもさくらんぼという言葉は出来るだけ避け、あえて桜で通そうとしているようだ。
と言っても私はこのことを咎めようとは少しも思わない。芝居でも小説でも翻訳ものは
“日本版”として愛されればそれでいいと考えるからである。
その“日本版”·として私がまず思い浮かべるのは主役の女地主ラネーフスカヤ夫人を十八番にしていた女優東山千栄子さんのことである。東山さんは七十になってもこの役を演じていたから、私はラネーフスカヤ夫人のことをてっきりお婆さんだと思いこんでいたが、戯曲をよく読めば彼女はまだ四十代、パリへ出て若い男と同棲などをしている未亡人なのだった。
(2001.4.3)